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中野ブラザーズヒストリー Vol.10~東京進出!そして中野ブラザーズ誕生~

更新日:2020年5月5日

日本を代表する #タップダンサー #中野ブラザーズ の昭和の芸能界を彩り、駆け抜けた栄光の軌跡を紡いでいきます。


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1953年(昭和28年)9月、吉田タケオ・ダンススタジオを辞めて、啓介と章三と母の三人で東京へ向かった。

当時は、京都から東京までは10時間以上もかかったので、その時「中野弘子劇団」に所属していて名古屋で公演中だった長兄・馨(南風カオル)を訪ね、久しぶりに三兄弟と母の家族団らんとなった。名古屋で馨と別れ、夢と希望と不安が入り交じる中、東京へ向かう三等車にガタゴト揺られた。

新宿駅の甲州口(現・南口)に降り立つと、空き家や仮設の建物ばかりで歌舞伎町一面が見渡せた。戦前とはまるで変ってしまった新宿界隈の風景に、母は驚きを隠せなかった。

井の頭線の久我山駅に、祖母(母の母)が暮らしており、三人はそこで暮らし始めた。二間ほどの狭い部屋だったが、東京で寝起きをする場所が決まって安心した。狭いながらも一家が集まってわいわいしながら過ごす生活は少しも苦ではなく、むしろ楽しかった。

ある人から、東京の植松芸能事務所を紹介していただき、さっそく二人は新宿にある事務所に向かう。植松社長との面接では「男二人がタップダンスを踊っても、どこのショウも使ってくれない」と言われて落胆したが、どうにか事務所に所属することができた。

タップダンスを踊り始めたのは啓介12歳、章三10歳の時だったが、この時から二人は公式に「中野ブラザーズ」を名乗るようになった。


日本のタップダンス史に燦然と輝く、中野ブラザーズの誕生である。

1953年、植松芸能事務所に所属したときに撮影した、初めてのパブリシティ用の写真(宣材写真)

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