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公演するホテルに着いた早々、兄の啓介はチエミさんのお父様から餞別でいただいた50ドルでスロットマシーンに興じた。ビギナーズラックで大当たりが出て、幸先の良いスタートとなった。
『ホリデイ・イン・ジャパン』は二部構成で、前半は派手な花魁道中から日舞や琴と三味線の合奏、章三が左甚五郎で踊る「京人形」や永田キング(コメディアン一家)のショウがあり、後半はがらりと変わり現代の日本の歌と踊りのショウ構成、そして中野ブラザーズのタップダンスである。
初日まで一週間、前半の日舞などは東京でみっちり稽古をしているが、後半のタップナンバーはまったく振付けがされていない。
あと三日で初日を迎えるというのに、タップナンバーの振付けはいまだ手付かず。さすがに焦りを隠せない二人は自分たちで振付けをしようかとまで考えたがそうはいかない。
その日、プロデューサーのシャーリー・マクレーンさんが友人のダンサーを連れてやってきた。タミー・モリナロ氏との運命的な出会いである。
タミー先生は、二人がラスベガスに滞在中、様々なダンスをお稽古してくれた恩人でもある。
「君たちが70歳を過ぎても生徒にお稽古ができるようにしてあげる」といって、滞在中毎日休みなく稽古をつけてくれたのだ。その甲斐あって、章三は80歳を過ぎても現役のタップダンサーとして、毎週生徒にお稽古をつけている。
初日の前日、ある程度の振付けはできたものの、タップナンバーはいまだ未完成。泣いても笑っても翌日の20時には幕が上がってしまう。胃が痛む思いをしながら初日を迎えることになった。
初日の昼のゲネプロ直前に、シャーリー・マクレーンさんとタミー先生の間でようやくタップの振付けが固まり、急いで振付けを覚えてゲネプロが始まった。
二人は、燕尾服で一時間前に覚えたばかりのステップを必死で踊った。その後、着物に着替え下駄で同じステップを踊った。もう何も考えずにステップに集中して踊りきった。
演出家もスタッフも、ブラボー!といって拍手を送ってくれたが、あと数時間でラスベガスの目が肥えた観客の前で踊ると思うと、まだまだ不安を拭いきれない二人だった。
1959年、タミー・モリナロ先生のダンスレッスン風景
ボーダーシャツは章三
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