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中野ブラザーズヒストリー Vol.12~夢への階段を駆け上がる二人~

更新日:2020年5月5日

日本を代表する #タップダンサー #中野ブラザーズ の昭和の芸能界を彩り、駆け抜けた栄光の軌跡を紡いでいきます。

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東京での初ステージが大成功に終わり、翌月から次々と仕事が舞い込むようになる。行く先々の米軍クラブではいつもアンコール。東京中の芸能社に「中野ブラザーズ」の名前が知れ渡った。

毎月25本程度の仕事が入るようになり、生活は安定した。

北海道から九州まで、米軍のキャンプで踊るようになり、忙しくとも嬉しい毎日が続いた。

翌年からは米軍のキャンプやクラブの他に、日本のお客様向けに大きな劇場で踊る機会に恵まれる。


1954年の初仕事は『東京キューバンボーイズショウ』の金沢公演。

二人は、得意の”イン ザ ムード”(In The Mood)と”12番街のラグ”(12th Street Rag)を続けて踊った。この時もお客様からの大きな拍手と歓声が鳴りやまなかった。

自分たちのタップダンスが日本人にも受け入れられたことに、二人は大いなる手ごたえを感じた。

ステージが終わり、楽屋にいた二人にバンドマスターの見砂直照さんが声をかけてくれた。

「良かったぞ!」

日本のお客様にも、そして有名なジャズバンドのバンマスにも認められ、目頭が熱くなった。

これからは、もっともっと芸を磨いて日本中のお客様に喜んでいただこうと、啓介と章三は心から誓い合った。


それ以降、東京キューバンボーイズショウで全国各地を巡演することになった。

1954年、東京キューバンボーイズショウのためのスチール写真

(注)当時の表現の意図を尊重してそのまま掲載します。

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